#18 Soft or Hard – Three weeks with Soft-Concrete

出品作家:Soft-Concrete : 齋藤浩太(音楽家)+東亭順(美術家)

企画:東亭 順

会期:12月5日(土), – 12月20日(日) / 土日のみ開場 14:00-17:00(or18:00)
12/05 sat 14:00-17:00 Exhibition / 18:00- “Iridescent custard” Live Performance by Soft-Concrete
12/06 sun 14:00-18:00 Exhibition
12/12 sat 14:00-17:00 Exhibition / 18:00- “White hoppy, Black hoppy” Live Performance by Naked Temper / Soft-Concrete
12/13 sun 14:00-18:00 Exhibition
12/19 sat 14:00-17:00 Exhibition / 18:00- “Sand bridge” Live Performance by KARASU-TEI & Soft-Concrete
12/20 sun 14:00-17:00 Exhibition / 18:00- “Head west” Live Performance by KARASU-TEI, Aoi & Soft-Concrete

プロジェクト18回目となる本展は、音楽家 齋藤浩太と美術家 東亭順によるサウンド&アートパフォーマンス・デュオ:ソフトコンクリートによる初めての展覧会になります。結成以来、アズマテイプロジェクトでライヴパフォーマンスを重ねてきました。空間を一新したアズプロでは、映像以外での初めての展覧会となります。

三週連続週末の夕方からライヴパフォーマンスを行い、展覧会を深化させてゆきます。

​about Soft-Concrete

「ライヴパフォーマンス」。東亭は当初、このような言葉を使ったが、私はピンときていなかった。よく見る展覧会場で行われるライヴイベントなどは、往々にして余興のような印象を受けるものが多いからだ。この2年間で「ライヴパフォーマンス」は数多く行われ、毎回メンバーが異なり、私自身も一度参加する機会があった。実際にアズマテイプロジェクトで繰り広げられるそれを目撃した印象は、「何か在るな」というものだった。それはそれぞれの個性がセッションを行う、という類のものではなく、その場その瞬間に、言葉では言い表せない感覚を揺さぶるような「何か」が立ち現れるか否か、というアクションだ。これは決して新しいものではないし、新時代を切り開くものでもないかもしれないが、何かしら、今の時代を生きていく中で大切なものが含まれているような気がしてならない。この2年間で繰り広げられてきた「ライヴパフォーマンス」は東亭が野毛周辺(の飲み屋)で出会った表現者とのものばかりであり、彼らは酒を呑みながら呼吸をするように表現行為を行うというのが私の持った印象だ。それくらい表現が生活に根付いているのだろう。その中で結成されたのが、東亭と齋藤による”ソフトコンクリート”だ。そのソフコンが今回、ある一定期間の中で行われる展示形式で表現を行う。これまでとは異なる状況で、何が繰り広げられ、何が立ち現れるのか刮目したい。

彫刻家 石井琢郎

Soft-Concreteであり続けること
ソフトコンクリートとは、現代美術家 東亭順と音楽家 齋藤浩太の2人からなる『サウンド&アートパフォーマンス・デュオ』だ。東亭は、普段誰もが手に入れやすい、一度は目にしたことのある素材を選択するのだが、それらを使用する方法が独特だ。例えば石膏粉を店舗が用意する雨傘用のビニールに入れたり、拡声器の一部を養生がわりに使用したり、マスカーをキャンバス木枠に張り付けて支持体としたりと本来の使用目的とは異なる方法をとることで、見る者に対し常識や固定概念への疑問や疑いのきっかけを促し、試みているように感じる。
  一方の齋藤は、主に自身が奏でるギターの生音や、至る場所でサンプリングした音を素材として展開する。居酒屋での他愛のない会話、旅先や行く先々で気になった音を選びサンプリングしていき、、、否、その場で偶然に出会う音・空気・景色などの彼が目の当たりにした風景を、レコーダーを使用し写真機のごとく丸ごと飲み込むように写し「録る」。今、この場所で演奏している生の音と、過去に集積した音、これら複数の音が混じり合いひとつの音の世界を生成し、聴いている者の耳に入り込んでくるのである。
  ソフトコンクリートはいま現在「ライヴパフォーマンス」という形式で活動している。お互いのパフォーマンスが混ざり絡み合い、ライブならではの緊迫感ある空間で、次から次へと奇妙な物体と音が繰り出され続ける。予測不可能な展開が激流のように現れ、見る者は不安な気持ちに陥るのだが不思議と嫌な感覚はない。むしろ、この先この直後がどのように変化しても一向に構わないと感じ、心待ちにしていることに気づくのである。
  パフォーマンス終了後も、一体何が行われていたのだろうと再考を試み、納得する理由を得たいのだが、その結論を簡単に凝固させてはくれない。何故ならば、彼らは常に次への興味や場所などの素材を探し求め続けていく、いつでも、いつまでも固まることのないドロドロとしたソフトコンクリートであり続けるが故に。

画家 烏山秀直

うららかな春の陽射しを浴びた表通りにも、すえた匂いのする裏通りにも、日曜の午後のベランダの陽だまりにも、独身者の部屋の片隅に溜まった埃のかたわらにも、メロディーやリズムは漂っている。そしてかつて詩人が母音の色を高らかに宣言したように、メロディーやリズムもまた、個別の色を持っている。
  今そこにある、かつてあった、そしてこれから生まれるはずのメロディー。一定の間隔で漂うリズムと、わずかにずれながら反響し加速と減衰を繰り返すリズム。それらをランダムにすくい取って提示し、ときに切断し、鼻歌まじりに投げ捨てること。捨てられた断片はすぐさま蛇のように床を這い部屋の隅へと退却し、忘れ去られる。だが本当は、蛇たちが暗がりからじっとこちらをうかがっていることを演奏者は知っている。新たな音を繰り出し調子外れのメロディーで蛇たちへのレクイエムを奏でると、わずか数瞬前の忘れられた出来事が思い出へと変わる。新しさも古さも未来も過去も無化される場を共有するためには、それらすべてを等しく扱う必要があるだろう。過剰な意味付けは危険なのだ。
  ライヴパフォーマンスとはそうした破壊と構築を繰り返す行為である。目の前にある色と形/メロディーとリズムは、そうあって欲しい何かと現にそこに立ち現れている何かとの混合物であり、その移ろいゆく有り様に永遠と、虚無に飲み込まれそうな瞬間を閉じ込めながら、我々はただ辺りかまわずまた臆面もなく、イデーと駄法螺を皆さんへ提示する次第である。

音楽家 齋藤浩太

一度も顔を合わせた事がないある北欧の歌姫とのメールでのやり取りが順調に進み、スケジュールが決まりかけていた一年前の春先。アズプロの裏通りにある立ち飲み屋で齋藤浩太と落ち合い、日本と北欧での公演計画について話しながら、入れたばかりのボトルに思いつきで名前を書き込んだ瞬間、ソフトコンクリートは誕生した。そのあと暫くたったイースターが終わって間もない頃、北欧から極東までの航空機による二酸化炭素排出量によるリスクについて詳細に書かれた長い返信メールを受け取ることで、生まれたてのソフコン北欧デビュー計画は呆気なく流れていった。
  アズプロの近くを流れる通称ドブと呼ばれる大岡川は、東に広がるみなとみらいの海へとつながる汽水域だ。以前と比べると透明度が増したドブに、大きな黒鯛や鱸が東京湾からあがってきて、時期が良ければそのゆったりとした姿を目にすることができる。生活排水や工場廃水の規制や下水処理能力の向上による賜物なのだろう。そんな川岸に広がる町で私たちは社会生活を営んでいる。時として目を背けたくなるような生々しさが昼夜を問わず至る所に転がっているが、それらを平均的な醜さでさらりと塗り替えてやり過ごし、ドブに唾を吐く。たぶん、キレイだとか、カワイイだとか、ウツクシイだとかは、本当にミニクイ者たちが都合よくでっちあげた感覚に突き刺さるコトバなのだろう。私たちの営みは、醜さで塗り重ねたフツウさを守る社会で、設定通りに演じ、エラーを出しながらその醜悪さに耐え忍び、ゆるやかに思考から背を向けることだと言えなくもない。たゆたいきらめくドブの水面越しに見つけた魚たちの姿に、私たちはどんな表現を与えることができるのだろう。
  歌姫との一件からすでに一年半が過ぎた。コロナ禍によって移動が極度に制限されることで二酸化炭素の排出量も激減し、航空会社の存続が危ぶまれている。同時に世界各地で自然が元の姿に戻りつつあるようだ。歌姫の予言とは言わないが、考え、判断し、行動する厳しさにこそ創造は宿る。

現代美術家 東亭順

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